始めに
ハッキリとここに明言する、私はLinuxデスクトップが好きだ。
そんなことは、分かっているって?
まぁ、とりあえず話だけでも聞いていってほしい。
Linuxデスクトップとの出会いと子どものころの夢
Linuxデスクトップが好きになる切っ掛けは、私が小学校6年生のころまでさかのぼることになる。
当時放送されていた「ブラッディ・マンディ」というドラマが切っ掛けだ。
正確には、ドラマ内のハッキングシーンを再現する動画を見つけ、カッコイイLinuxデスクトップに出会えたことだ。
そこからUbuntuやFedoraを知り、BIOS・GRUB・MBRという物と触れ合うことになる。
最終的に簡単ではあるがC言語にも出会う。
この時点で中学1年生だ。
このあたりで、私の夢はプログラマーになっていた。
非常にミーハーな理由でもあるし、中二病であることは否定しない。
とはいえ、おそらく人生で最初に心が震えたのは、このLinuxデスクトップとの出会いであることは間違いないだろう。
この記事の目的
子どものころ夢見たプログラマーになることはできた。
じゃあ、「夢を叶えたから終わりなのか?」と言われたら、確実にそうじゃないと言える。
ここから先、何を目指すべきなのか、何をモチベーションにエンジニアリングしていくべきなのか…。 これを言語化していくためには、自分が技術に触れる切っ掛けとなったLinuxデスクトップに対する愛を言語化しておきたいと思った。
愛その1. Linuxデスクトップはカッコイイ
Linuxデスクトップはカッコイイのだ。
もちろん、どのようにカスタマイズするか、それは人それぞれかもしれない。
人によっては、可愛い見た目に変更しているかもしれない。
「萌えぶんちゅ」というカスタマイズだって存在するが、ここではあえてカッコイイという表現をさせてもらう。
私は"見た目"の話をしているのではない!
ここで言うカッコイイとは何か。
それは、使用するユーザーの好きなように変更が可能であり、これを妨げる物は時間と知識以外存在しないのだ。
Linuxデスクトップという存在を扱うということ自体がカッコ良さの象徴と言えるでしょう。
当然のことながらディストリビューションやLinuxを作っている方々は、最上級にカッコイイと言える。
つまり、Linuxデスクトップを使っている人の在り方や、その行い自体をカッコイイとしている。
愛その2. 自動化できることへの感謝
まっさらな状態で、情報や基礎知識もなく、LinuxやTerminalの環境を使い続けるのは非常に面倒だ。
私の場合、自分のdotfilesを手放せと言われたら確実に面倒であるのは自明の理だ。
いま快適にLinuxやTerminal・Shell・Vimの環境を楽しむことができているのは、これまで投資してきた時間によって作られた自動化スクリプトや大量の設定のおかげだ。
そしてこれは逆説的に、それだけ投資できるだけの自動化スクリプトや設定をさせていただける環境だからと言えないだろうか。
私は徹底して、キーボードだけですべてを操作できることにこだわっている。
これは前述したように、「カッコイイ」からというのもあるが、純粋に効率が良い。
そうできるように設定してきたし、自動化もしてきた。
Linuxはそれがすべて可能なのだ。
ユーザーが許す限り、すべては自動にできる自由を与えられる。
いま使用しているPCに組み込まれているハードウェアは何だろうか。
Linux firmwareは対応しているだろうか。
謎の半導体メーカーならカーネルパラメータやudevに設定を増やさねばならない。
コンポジタとしてWaylandかX11を使わなくてはLinuxデスクトップとして楽しめない。
ディスプレイマネージャーには何を使おうか。
ウィンドウマネージャーは、X11ならi3wmか、Waylandならswayやhyprlandもある。
メインで使うエディタは何にする?
いっぱい設定したいからVimかEmacs?
IMEはインストールするか?
fcitx5は比較的安定している。
インストールしないなら、VIME(Vim Input Method)やEmacsのddskkという選択肢もある。
…
……
………
さぁ、Linuxに対してどう思っただろうか。
大半の人は面倒と思うだろう。それは非常に一般的だ。
逆に「まだ考えることがあるだろう」と思った人はいるだろうか。
こんなにいろんなことを考えさせてくれるのか、と思う人だっているかもしれない。
こんにちは、もしくは、初めまして、あなたはこちら側だ。
すべて自由に設定させていただけるし自動化もさせてくれる。
ベンダーに縛られなく、時間を投資し面倒は自動化していこう。
そして気が付くはずだ。こんなに設定と自動化させてもらえていることに、感謝しているはずさ。
愛その3. Linuxデスクトップのカスタマイズは自由
故に『設定させていただきありがとうございます。』
私は記憶する限り、直近のカスタマイズできる関連の記事では、この言葉を繰り返してきた。
もちろん、元ネタが最高に印象として強いことは否定しないし、それを永遠と擦っていることも否定しない。
ただ、Linuxデスクトップに出会う以前から私はアプリケーションを細かく設定しないと生きて行けない質の人間であることが発覚した。
そもそも親が所持していたOfficeなどを使う程度のWindowsPCがあり、それを遊びの一環で小学校3年生くらいから触っていた。
当然ながら親のPCなので壊すのも良くない1し、何と言ってもダサいのだ。
だいたい小学校3〜6年生くらいの男の子っていうのは、ドラゴン柄の裁縫セットみたいなデザインが『カッコイイ』と思いがちだし、恥ずかしながら私もそうだった。
ここで少年は思うのである、
「自分が触るときだけ、めちゃカッコイイ感じにして、親が使うまでには元に戻っていれば良いのだ」。
実際のところ、親がPCを使うことに対してやめろと言うことはなかったし、そこまで使わなかったので、使うときには戻っていれば良いという制約が付いていた。
つまり、元のダサいPCに戻す再現性という誓約があったのだ。
「制約と誓約」ってね
ここで本題へ戻り、設定することの重要性が出てくる。
壁紙やデスクトップウィジェットを変更しても、とりあえず見た目を変えて、自分の手が離れるときには元に戻せれば良い訳だが、手順は多いしこれは面倒だ。
ある一定の設定がされた状態を記録し、切り替えることができれば、ダサPCからイケイケPCへと見た目を変更できると考えたのだ。
この当時から無意識にプロファイル的な考えを持っていたのは今でも驚きだ。
ただ、子どもの段階で「本当にそんなことを考えるのか?」と疑念を持たれるかもしれないが、これは事実だ。
そしてある程度は求める設定のプロファイルは構築できた。
それはWindowsというシステムで提供している見た目だけの世界観で、ウィジェットのような外部の存在の見た目は元に戻せなかったのを記憶している。
ただ、いろいろなウィジェットアプリケーションを切り替えながら、設定ファイルが存在する物に出会った。
メモ帳にファイルをドラッグ&ドロップさせ、中の文字を変更することによって見た目を変更できるという体験に出会い、世界がまた変わった。
これによって任意のファイルをメモ帳で開くという遊びを覚えるようになった少年は、さまざまなファイルをメモ帳で開き、それらしい物を見つけては文字を変えて動作の変更を確認するというのが遊びになったのだ。
この段階でわずかばかりだが、Dosのバッチも触り出していた記憶が微かにある。
すでに設定の魔法に取り憑かれているように見えるが、ここに来て冒頭で話をしたようにLinuxデスクトップに出会ってしまうのだ。
それまでWindowsという世界観で、ある程度の自動的な見た目の変更はできていたが、LinuxやOSという物自体の理解が深まったとき、それは革命であるということを認識した。
そもそも、「Windowsというシステムだけで考えているから、自由に見た目を変更できないのだ。」
自分の求める世界観を最初から、自分の考える思想の元「すべてを設定させていただけるLinux」というのは神にも等しい存在であった。
これは私の中における「コペルニクス的転回」だった。
なぜ、Windowsという世界だけで完結しようとしていたのか、余りにも愚かな考えと言えないだろうか。
すべてはそこで「設定させていただけている」ではないか。そう、Linuxでね。
ここまで語ったからには言うまでもない。
Linuxは無限にカスタマイズできる、そして 自由 だ。
私の思う『Linuxデスクトップ元年』とは
さて、ここまで愛を語ってきた。
そして、まだ触れていない物もある。
Linuxデスクトップ元年 だ。
今日もLinuxデスクトップ元年だし、これを読んでくれているなら、その瞬間もLinuxデスクトップ元年は更新し続けている。
そして、このLinuxデスクトップ元年という単語はネタのように扱われ、私は何度も連呼しているのは、確実にネタの1つでもある。
だが、ここであえて『Linuxデスクトップ元年』について定義しておこうと思う。
ここまでの文章を読んだあなたなら分かるはずだ。
私は想像以上にLinuxデスクトップの厄介オタクである。
そんな厄介な奴の言い出すLinuxデスクトップ元年なんて、面倒この上ない。
…まぁ、折角だから最後まで見ていってくれよ。
私が求めている『Linuxデスクトップ元年』とは、純粋にLinuxをデスクトップとして普段使いする人に溢れることだ。
もちろん、非常にハードルが高いことだし、万人にウケる物でもないことは理解している。
理解できる人どうしで、良さを、新しい発見やカスタマイズと運用を語り合える世界だ。
Linuxデスクトップを使ってくれる人が増えることは一向にかまわない。
ただ、誰かに教えてもらって、設定をコピペしていれば使えた気になれるド素人は、ここで回れ右で帰ってくれ。
この元年に来て欲しいのは、Linuxという聖域を知的探究心で遊び尽そうっていう、良い意味で頭のイカれた奴らの集まりであって欲しいって、心の奥底で思っているんだ。
な、非常に厄介だろ。
最後に
Linuxデスクトップ元年に関しては、かなり言いすぎている部分はあると思う。
これはある種の親切心で言っているだけだ。
Linuxっていうのは誰でも始められるし、それを否定する権利は誰にもない。
ただ確実に言えるのは、非常に難しい領域でもあることだ。
全力で勧めていきたいが、これによって誰かを不幸にするのは本望じゃない。
ここ最近2では、Windows10のサポートが切れて、マシンスペックの問題でWindows11へ移行できない人や、移行しても思うようなシステムではなかったと感じた人が多く見受けられる。
そして無料のOSとして、移行先としてLinuxに白羽の矢が立っている。
別にLinuxにするのが悪いと言っている訳ではない。
ここまで面倒なオタクを演じたように、Linuxって奴も面倒な奴なんだ。
決して万人にウケるOSじゃない。
あと伝えたいこととして、Linuxを勧めていきたいのは、一緒に仕事をしている人たちだ。
IT業界でエンジニアリングしているなら、ぜひとも使ってみてほしい。
Linuxの可能性は無限大だ。
それを食わず嫌いして、触れないなんてもったいない。
それを すてるなんて とんでもない!
最後にLinuxデスクトップを使い続けることに対して伝えたい言葉がある。
泥臭くとも、日々運用し続けよう
明日はもっと上手く運用できるさ